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幻住庵について
幻住庵の起源
幻住庵は延元元年1336年無隠元晦による開山、開基は大友氏時です。創建当初は那珂郡馬出村(福岡市東区馬出)にありました。当時の幻住庵は山内に塔頭(子院)が6か寺あり、広壮な大伽藍は巍然として禅門の威を示し聖福寺、承天寺と並び称せられたと残っています。名前の由来は無隠元晦が中国に渡り参禅した中峰明本という禅僧に関係があります。
当時の中国には五山十刹制度があり、これは寺院を国家管理する為の官寺制度でした。日本でもこれを真似て鎌倉五山、京都五山など五山十刹制度が用いられていました。具体的にば官寺に格付けを行い、上から五山・十刹・甲刹と3つの段階を設け、1番下の甲刹に選ばれた僧侶が十刹に上がり、更に十刹から五山に上がるという昇進制度でした。僧侶の中にはこれを名誉な事と考え、五山十刹での出世を望む者も多く存在しました。中峰明本は中国禅宗界屈指の禅僧であり、五山第一位に住持するよう求められたが、これを拒否しています。中峰明本は名誉欲を捨て官寺の世界から抜け出し行脚の旅に出ます。
そして行く先々で庵を創りこの庵をすべて幻住庵と名付け、そこで座禅をし自らも幻住と号しました。中峰明本のような世俗と一線をかく禅僧のもとに、西域・高麗・雲南・日本の人が集まってきました。中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は6名おり無隠元晦もその一人です。無隠元晦は師の中峰明本が名付けた幻住庵という庵に因んで、博多に天目山幻住庵を開きました。中峰明本の法系は日本では幻住派と呼ばれ中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えます。
しかし戦国時代の博多はさまざまな勢力の争奪地となりました。幻住庵もこの頃の兵火(1573年-1591年)で焼失、復興に尽力したのは聖福寺110代耳峰玄熊と大賀宗九・宗伯親子でした。1615年頃から復興が始まり聖福寺からは西門の土地を分けて頂き、大賀宗九からは大賀家の住んでいた土地を寄進して頂きました。本堂、庫裡が完成したのは1646年8月でした。博多の幻住派僧にとって幻住庵は何としても復興させたい特別な寺院であったようです。再興に尽力した耳峰玄熊を中興の祖とし、大賀宗九を開基としました。これが現在の幻住庵です。
開山無隠元晦
無隠元晦は弘安6年(1283年)に豊前に生まれました。姓は大蔵氏、出生地は田川の弓削田。正安元年(1299年)博多聖福寺明窓宗鑑のもと、戒を授かり、剃髪し僧となります。博多聖福寺は、日本禅宗の初祖と仰がれる明庵栄西が開き、「扶桑最初禅窟」つまり日本で最初の禅寺という由緒を誇る臨済宗の名刹です。 延慶3年(1310年)元に渡って杭州の天目山に登り、天下に名高い中峰明本の元へ参じます。この中峰明本は、その修行の厳しさから死関と称された、高峰原妙の法を嗣いだ人物で、当時稀代の名僧として世に知られていました。今に遺る肖像画を見ると、死関を越えた人物に相応しい特徴が確認できます。高峰原妙のもとで修行するにあたり、その志を証明するために、指に香の束をくくりつけて燃やす燃指を経験した為、左小指がありません。無隠元晦はこの中峰明本の元で、道を究めるべく修行を始めました。正和4年(1315年)に、大悟に至り、中峰明本の法を嗣ぎます。元亨3年(1323年)師である中峰明本が世を去ります。師の死から3年間は天目山に止まり、師の墓所を守りながら喪に服していたようですが、嘉暦元年(1326年)に16年の長きにわたった中国での生活を終えて日本に帰国します。出航は6月22日。玄界灘から博多湾に入ったのは8月のことだと伝わっています。
帰国後は筑前多々良の顕孝寺に住持。延元元年(1336年)に馬出に幻住庵を創建。のちに博多聖福寺の二十一世住持となります。入寺したのは康永元年(1342年)の事だとされています。禅の一大中心地であった福岡の中でも、とくに最古の由緒を誇る寺院であり、そして自らが僧となったこの聖福寺の住持となったことは、無隠元晦にとって感慨深いものであったはずです。聖福寺にあること6年、貞和4年(1348年)京都建仁寺三十二世として迎えられ、翌年貞和5年京都南禅寺二十一世として迎えられています。
南禅寺にあること1年して無隠元晦は退院し、すぐに九州へとかえってきたようです。晩年は静かに暮らしたようで、はっきりとその事実が確認できるのは正平12年(1357年)上野の宝覚寺にあった無隠元晦が中国の天目山以来の友であり、東国の常陸に居を据えて世には出ず、後進の育成に力を注いだ復庵宗己に書状をだしています。この手紙は復庵宗己からの手紙への返信で、2人は帰国後も連絡を取り合っていたようです。その書状では、復庵宗己に、久しぶりに会いたいが叶わないな、と語りかけながら、別れの言葉を述べています。この頃既に、いささか体調を崩していたらしく、そしてこれからちょうど1年後10月17日に無隠元晦はこの世を去りました。しかし、無隠元晦が世を去っても、その存在が忘れられることはありませんでした。100年後の康正2年(1456年)には、後花園天皇から、法雲普済禅師の諡号を下賜されています。
幻住庵 開基大賀家
大賀氏の祖先は豊後国の緒方三郎惟栄と伝わっています。緒方三郎惟栄は源平合戦の時、源頼朝に味方して平家追討に功績がありましたが、その後の頼朝と義経の争いには義経方に味方したため頼朝の不興をこうむり、上野国沼田に配流されました。頼朝は豊後国を大友義直に与えます。大友義直は、緒方三郎惟栄の平家追討での功績を頼朝に訴え、赦しを請います。この訴えにより、緒方三郎惟栄は赦され豊後国佐伯領を賜り佐伯城主として子々孫々、大友家の幕下となります。この地に土着し地名の佐伯を氏として佐伯姓を称しました。
その後、大友家に内紛がおこり、佐伯氏も兄弟の相続争いによって零落し惟信の代に佐伯姓を改めて大神姓を称しました。その後、大友義統の時には大神大学は小姓として主君に近侍していました。しかし大友義統は文禄2年(1593年)朝鮮出兵時の平壌の戦いで小西行長を救援せずに京城に退いた為に豊臣秀吉の怒りをかい領地を没収され、毛利輝元に預けられ山口に幽閉されました。その為、大神大学も流浪の身となり、豊前中津に移りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、中津城主黒田如水・長政は東軍(徳川方)に味方し、毛利輝元・大友義統は西軍(石田方)に味方しました。大神大学は如水に召し出され、如水の家臣宇治勘七とともに、大友義統説得の使者を命じられ、手紙を持って上関に至り船上で如水の意向を伝えました。このような関係から、大学は如水の信頼を得、黒田氏が筑前国の領主として福岡に入ると、それにしたがって筑前博多の呉服町に住み、慶長6年(1601年)の福岡城築城にさいしては資金を提供しました。黒田長政は、大神大学に士官を勧めましたが、大学は辞退して商人となり、大神姓を改め大賀宗九と名乗りました。
大賀宗九は長崎で朱印船貿易にも従事していました。徳川家は貿易がどんなにもうかるか熟知していましたので、幕府からの心証を悪くしたくない黒田家は他の西国大名のように自分の名前で朱印状を申請するのを避け、商人である大賀家の名義で渡航の権利を手に入れました。多額のお金がかかるのですが、大賀家にはそれが可能でした。大賀宗九はのちに呉服町西側に隠宅を構えて移り住み、幻住庵を現在の場所に再興しました。元和7年(1621年)4月、黒田長政は積年の宗九の苦労に対して粕屋郡中原村・箱崎村のうち164石を知行として与えようとしましたが、宗九は辞退。長政は「その行い神妙である。子孫が不幸にあえば助けよう」と言ったといわれています。寛永7年(1630年)5月13日に死去しました。大賀宗九は嶋井宗室、神屋宗湛とともに博多の三傑と称えられています。
大賀宗九には3人の息子がいました。長男善兵衛は呉服町西側の宗九の居宅に住みましたが、男子にめぐまれず神屋氏や京都の山脇氏から養子をむかえています。次男九郎衛門は伊藤小左衛門の娘を妻としましたが、やはり男子にめぐまれずに家は断絶。三男の惣右衛門は宗伯と号し、呉服町西側の本宅をつぎました。こうして善兵衛家(上大賀)、惣右衛門家(下大賀)の両家にわかれ福岡藩の筆頭御用商人として繁栄していきます。
正保4年(1647年)、禁を犯して長崎港にマカオの黒船が入港する事件が起きました。当時、長崎警護を担っていた福岡藩と佐賀藩は焼草を積んだ小舟に火をつけ黒船に体当たりさせる作戦を取ることにしていましたが、長崎から近い佐賀藩と違い福岡側にはなかなか焼草が到着しませんでした。黒田騒動でお家取り潰しの危機を招き、今回は名誉挽回の好機と張り切っていた忠之(長政嫡男)は焦りました。大賀宗伯らは機転をきかせ長崎の稲佐にあった家屋を買い取りその屋根のわらを忠之に差し出します。瀬戸際で役目を無事に果たした忠之は宗伯に黒田家の家紋入りの陣羽織と50人扶持を与えました。宗伯は忠之のお供でしばしば江戸にも上がり、能楽や鼓の稽古ではいつも忠之の相手を命じられたと伝わっています。茶道もたしなみ、文化人としても秀でていたようです。
大賀氏は福岡藩町人格式の筆頭で呉服町上・呉服町下に住む上大賀・下大賀を「両大賀」と呼び、次いで「大賀並」、「大賀次」など8段階の町人格式の基準となりました。
明治30年に政府により土葬が禁止となりました。幻住庵でも大正の初めに墓地改葬を開始し、昭和11年にすべてのお墓の整理が終わりました。この時に大賀宗九の墓地も改葬することとなります。お墓を掘り下げていくと、石灰の中で頭部は剃髪してあり端然として座禅を組んで瞑目した宗九の遺骸が出てきました。昭和11年3月5日の福岡日日新聞に当時の記事が残っており、九大法文学部長が専門家を連れて調査に入ったことも記してあります。当時の墓地に石灰を以て遺骸を包み腐敗を防いだ例がなく、且300年前の博多の三傑の1人の在りし日の面影を偲ぶ事を得たので感激していると記されていました。
日本で活躍する幻住派
アジアで知られた中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は、無隠元晦のほかにも遠渓祖雄・復庵宗己・古先印元・業海本淨・明叟斉哲・大拙祖能らがおり、彼らは日本禅宗界において幻住派といわれています。禅宗ではとりわけ師弟関係の結びつきが強く、どの師匠にまなび法を受け継いだか(法系)が重要視されています。最終的には、自分の師匠筋の法系をたどっていくと、禅宗のふるさとである中国禅宗界のどのような高僧につながっているのかというのが大事であり、その法系が中峰明本へとつながるのが、幻住派と呼ばれる禅僧グループでした。 幻住派の禅僧は、帰国後その多くが中央の権力者とかかわらない林下で活動しました。京都からはなれた丹波国に高源寺をひらいた遠渓祖雄などはその代表といえます。しかし、無隠元晦は帰国するときに同じ船に乗り合わせた中国僧の清拙正澄が建仁寺の住持になるとよびよせられ、その後も大友氏泰の依頼で筑前顕孝寺に入り、博多聖福寺二十一世として出世し、京都建仁寺(三十二世)や南禅寺(二十一世)の住持ともなっており、政権と密接な官寺で活躍しました。このほかにも、壱岐海印寺(安国寺)や豊前宝覚寺(興国寺)をひらいており、京都(中央政界)と北部九州(アジアへの窓口)で活躍した禅僧でした。とりわけ、博多近隣の多々良浜にあった顕孝寺は大友氏の外交活動の拠点となった禅寺で、聖福寺も都市博多の基盤として貿易拠点となっていたことを考えると、無隠元晦は最新の仏教を学び、大陸とのつながりをもっていた禅僧とし注目されていたようです。以後、無隠元晦の弟子筋の人びとは無隠派とよばれ、北部九州で活躍し博多地域の外交・貿易活動にたずさわっていく活躍をしました。そして、この無隠元晦の塔所として博多湾岸も馬出に創建されたのが幻住庵であり、その名の由来は師匠である中峰明本の庵名とおなじという由緒正しきものでした。 鎌倉末期に日本に伝えられた幻住派は、中央政界で華々しく活躍する禅宗と比べるとそれほど目立つ存在ではありませんでしたが戦国時代に躍進するきっかけをつかみます。十五世紀末に足利将軍家が二つに分裂する大事件が勃発し、この事件は時の元号をもちいて明応の政変といわれています。この政変により第十一代室町将軍となった足利義澄によって追放された第十代室町将軍足利義材は復権をかけて西国の有力大名であった周防大内氏をたよって山口に下向します。大内氏は、南北朝時代から活発に外交活動をおこなっていた大名でした。その大内氏の肝いりで文亀元年(1501)に朝鮮国へ派遣されたのが弸中道徳という幻住派僧でした。彼は鎌倉末期以来、博多地域で活躍していた無隠元晦系統(無隠派)の幻住派でありながら、遠渓祖雄系統の幻住派ともかかわる禅僧でした。大内氏は、新たな人材登用策として博多地域で活躍する幻住派僧を重要視していました。聖福寺に代表される博多の有力な寺院は、それらの住持となる為には室町将軍の発行する任命書(公帖)をもらう必要があり、大内氏は、博多への進出手段として博多の禅寺の住持候補者に対して、室町幕府に推薦状を出すことで、親しい関係をつくろうとしました。そのようななか、任命書の発行権を握っていた足利義材が大内氏を頼ってきたのです。博多の禅寺との関係強化の絶好のチャンスと考えた大内義興は、文亀三年(1503)足利義材の任命書で一華碩由という幻住派僧を聖福寺の住持とする事に成功しました。一華碩由は筑前箱崎の秦氏の出身で秦氏の菩提寺である箱崎建徳寺で出家、その後覚晶庵にいた遠渓祖雄六世の玄室碩圭に師事し、後継者となった禅僧です。その後、覚晶庵を建徳寺にうつして門弟を育成しています。この一華碩由の聖福寺出世以降、彼を前例として玉室碩琳、弸中道徳、湖心碩鼎といった幻住派僧もつぎつぎと聖福寺へ出世することになります。
永正五年(1508)足利義材は大内義興の協力をえて上洛し、将軍職に復帰。すでに、足利義材・大内義興との緊密な関係をつくっていた幻住派は、さらなる躍進をしていくことになります。永正十四年(1517)遠渓祖雄が創建した丹波高源寺が弟子筋の知伝碩精によって天皇の勅願所となり朝廷から紫衣道場としてみとめられました。紫衣とは特別な高僧のみに限って着用を許されたもので、禅宗では京都五山と鎌倉五山の両五山の上の別格とされた南禅寺や大徳寺・妙心寺の住持にのみ許された紫衣が高源寺住持にもみとめられ、幻住派の格式が日本社会のなかで飛躍的に上がったことをしめしています。 一華碩由のあとを継いだ湖心碩鼎は弸中道徳にも師事した無隠元晦系統の幻住派の禅僧でもありました。湖心碩鼎の活躍もあり、博多聖福寺は幻住派の一大拠点となりました。聖福寺には多くの塔頭がありそれぞれの創建は幻住派以外の禅僧でしたが、戦国時代には塔頭寺院の多くは幻住派の禅僧が住持していました。さらに、となりあう博多承天寺にも幻住派の影響がみられます。本来、承天寺は鎌倉時代に活躍した円爾という禅僧の弟子筋しか入ることのできない特殊な禅寺でしたが、この頃には幻住派の影響をうけた駿岳碩甫や九白元菊がいました。特に、俊岳碩甫は承天寺の本寺となる東福寺の住持だけでなく、遠渓祖雄の創建した丹波の高源寺の住持にもなっています。このように博多地域の禅宗界は聖福寺を拠点とする幻住派の勢いに席巻されていました。湖心碩鼎の弟子筋からは、聖福寺の住持となる景轍玄蘇(百九世)・耳峰玄熊(百十世)らが次々と輩出され、博多の幻住派は京都の中央禅宗界をも席巻し、さらに遠く関東の禅宗界にまで進出しました。 また、戦国時代の幻住派は当時の日本の外交を牛耳っていたといっていいほどの活躍をしています。弸中道徳自身、中国と琉球王国に二度ずつ、朝鮮国には三度わたった外交に秀でた禅僧でした。幻住派の外交僧としてもっとも有名なのが、聖福寺の湖心碩鼎です。日明貿易を独占した周防の大内義隆は、遣明船の正使として湖心碩鼎を抜擢し、日本から中国へ派遣される正式な外交官として明皇帝と接見し、貿易の実務をとりしきっています。また、多くの聖福寺の僧侶がこの遣明船に乗船し大陸に渡っているのは、大内氏が博多における遣明船の基地として聖福寺を位置づけたからです。その一方で聖福寺の幻住派僧は朝鮮外交でも活躍しています。その代表が湖心碩鼎の弟子であった景轍玄蘇です。天正八年(1580)に宗義調のまねきをうけ対馬に渡り、対馬の厳原に以酊庵をひらきました。景轍玄蘇は、以後、宗氏の主導する朝鮮通交の外交事務をつかさどります。豊臣秀吉によっておこなわれた文禄・慶長の役の時には宗氏や小西行長の軍隊に従軍し、戦後は日本と朝鮮の国交修復交渉に尽力しています。文禄・慶長の役では、多くの日本軍が朝鮮半島へ渡ったが、それぞれの軍隊には外交僧がつきしたがっていました。毛利軍に従軍した嘯岳鼎虎(湖心碩鼎の弟子)、鍋島軍に従軍した是琢明琳(湖心碩鼎の弟子筋)のようにその多くは幻住派僧であり、京都の豊臣秀吉の側近の外交僧として日本外交を差配した相国寺の西笑承兌も湖心碩鼎の孫弟子にあたる幻住派僧でした。慶長5年(1600年)には、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たり、この時、承兌あてに直江兼続から送られたとされる手紙が、後世にいう直江状です。十六世紀という戦国時代日本の外交も幻住派僧によって主導的におこなわれており、まさに「幻住派の世紀」といえます。